タンチュンデソン(蕩春台城)は、17世紀末から18世紀初頭にかけて急変する東アジア情勢の中、首都・漢陽を効果的に防御するため、1715年に粛宗の命によって築造が開始され、1755年(英祖31年)に完成した城郭遺産である。

戦時に国王と朝廷が都城を離れて避難する従来の戦略から脱し、首都を最後まで守り抜くという「都城死守論」を基盤として、ハニャン(漢陽)都城とプッカンサンソン(北漢山城)を有機的に連結し、漢陽の首都防衛体系を完成させるため築造された。
タンチュンデソン(蕩春台城)は、イヌァンサン(仁王山)から北漢山の碑峰へと続く険しい山並みに沿って城壁を築き、ハニャン(漢陽)都城とプッカンサンソン(北漢山城)を一体化する「連結城郭」であると同時に、都城西側外郭の軍糧倉庫であるピョンチャン(平倉)を防御する「倉城」としての役割も担っていた。
城壁は地形に応じて外側のみに石を積む「片築式築城法」を採用しており、これは大規模な火砲戦に備えた朝鮮後期の築城技術をよく示している。都城と近隣のプッカンサンソン(北漢山城)を連結する通路状の城郭としての性格に加え、補給を担う後方倉庫を防御する機能も備えており、韓国の城郭史においても非常に独特かつ希少な遺産として評価されている。
また、タンチュンデソン(蕩春台城)内部には、国防および兵站に関連するさまざまな城内施設と遺構が存在していた。プッカンサンソン(北漢山城)とタンチュンデソン(蕩春台城)を管理し、首都外郭の防衛と統轄を担った軍営・チョンユンチョン(総戎庁)跡地、有事に備えて大量の軍糧米を保管したピョンチャン(平倉)跡地、兵士たちの休養地であったセゴムジョン(洗剣亭)などが代表的である。
特に英祖は、タンチュンデソン(蕩春台城)完成に際して、『スソンユヌム(守城綸音)』を通じて都城を守り抜く意思を宣言し、民心の安定を図った。タンチュンデソン(蕩春台城)は、築城後も朝鮮後期の首都防衛における中核施設として機能し続け、朝鮮末期に至るまで関連記録が詳細に伝えられている。1920年代の大洪水により、弘智門や五間水門など一部施設が損傷したが、1977年の復元事業を経て現在の姿へと復元された。現在は大韓民国の国家遺産である史跡として、国家遺産庁とソウル特別市が協力し、ユネスコ世界遺産への統合登録を推進している。また、遺産の真正性と完全性が未来世代へ継承されるよう、体系的な保護・管理が進められている。


