歴史を 抱く
- 漢陽都城には私たちの歴史すべてが刻まれている。
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漢陽都城には私たちの歴史すべてが刻まれている。 三国時代以来、我が民族が発展させてきた築城技術と城郭構造が受け継がれている上、朝鮮時代の城壁築造術の変遷や発展過程までがそのまま反映されている。最初に築造された当時の姿はもちろんのこと、後に補修・改築された後の姿まで保持されているため、城壁を見て回るだけでも、歴史の足跡を垣間見ることができる特別な文化遺産である。
都城が初めて完成したのは約620年前である。 テジョ(太祖)5年(1396)旧暦1月9日から2月28日までの49日間と、8月6日から9月24日までの49日間、計98日間をかけて、全国の農民約19万7千4百人を動員して築かれた。全工事区間(計5万9,500尺)は600尺の97区間に分けられ、各区間は千字文の順に名前が刻まれ、郡県ごとに割り当てられた。初めて築城されたテジョの時は、平地は土城で、山地は石城となっていたが、セジョン(世宗)の時の改築の際に、土城の部分もすべて石城に変えられた。年月が経って城壁の一部が崩れたため、スクチョン(粛宗)の時に大々的に補修・改築が行われ、その後も幾度かの整備が重ねられている。一部の城石には築城の際に刻まれた記録が残されているが、テジョ・セジョンの時は区間名や担当の郡県名が、スクチョン以後は責任の所在を明らかにするために監督官・責任技術者・日付などが明記された。
都城は近代化の過程でかつての姿がかなりの部分失われてしまった。 1899年に都城の内外を繋ぐ電車が開通したことにより、最初に城門の機能が失われ、1907年にスンニェムン(崇礼門)の左右の城壁が撤去されてから破損が激しくなった。その後の1908年には平地の城壁のほとんどが取り壊された上、 城門もその姿が失われた。ソイムン(昭義門)は1914年に取り壊され、トニムン(敦義門)は1915年に建築材料として売却された。クァンヒムン(光熙門)の門楼は1915年に崩壊し、ヘファムン(恵化門)は1928年には門楼が、1938年には城門と城壁の一部が取り壊された。日本帝国は1925年にナムサン(南山)の朝鮮神宮とフンインジムン(興仁之門)隣のキョンソン(京城)運動場を建設する際にも周辺の城壁を壊して城石を石材として使った。民間人も城壁に隣接している家を建てる際に城壁を壊したり、解放後も道路・住宅・公共の建物や学校などを建てる時にも城壁が取り壊されることが繰り返された。
都城の修復は1968年1·21事態直後にスクチョンムン(粛靖門)周辺から始まり、1974年から全区間に拡大された。
"しかし、一度破壊された文化財を完全に修復することは容易なことではない。 かつては切れている区間を繋げることだけに重点が置かれ、むしろ周囲の地形と元の石材を毀損することも少なくなかった。ソウル市はハニャン都城の歴史性を温存し世界の文化遺産として残していくために、2012年 9月にハニャン都城都監を新しく編纂し、2013年10月に国際基準に準拠したハニャン都城保存・管理・活用計画を策定した。
都城は、2014年現在、全区間の70%、総12.8kmの区間が残っているか、修復された。 スクチョンムン・クァンヒムン・ヘファムンは修復されたものの、クァンヒムンとヘファムンは本来の場所ではない所にやむなく建てられた。元の場所に戻すためには市民の知恵を集める必要があり、築城術などの無形の資産を発掘することにも努めなければならない。
[崗字六百尺 刻字城石]
ナムサン(南山) J-Gran House ビルの土台から「崗字六百尺」と刻まれた城石が見つかった。これはハニャン都城の97の区間のうち、崗字区間600尺の始発店という意味である。しかし、残念ながら刻字城石の元の位置は確定できない。ナムサン(南山)J-Gran Houseを建てる際に、城壁を取り壊した石材が石垣に使われたためである。
ナムサン会賢区間、ハニャン都城発掘現場
ナムサンの北西一帯の裾は、日本帝国が朝鮮神宮を建てながら城壁を壊した区間で、2013年に地面に埋もれていた城壁の一部(94.1m)が発掘された。テジョの時に初めて積み上げた石と、セジョンやスクチョン以後、補修を繰り返しながら積み上げられた石が次々と姿を現し、ハニャン都城600年の歴史を証言している。
人生を 込める
- 約600年間、ソウルの垣根としての役割を果たしたハニャン(漢陽)都城は都城民の日常生活にも大きな影響を及ぼした。
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約600年間、ソウルの垣根としての役割を果たしたハニャン(漢陽)都城は都城民の日常生活にも大きな影響を及ぼした。 ポシンガク(普信閣)鐘楼に吊り下げられている巨大な鐘は城門の開閉時刻を知らせ、夜明けには33回、夜は28回鳴らされた。夜明けに打つ鐘はパラ(パル_罷漏)、夕方に打つ鐘はインギョン(人定)と呼ばれ、民家の門扉もこの鐘の音に合わせて開閉されるなど、城門の開閉時刻は都城民の生活リズムを左右したとも言える。
ハニャン都城はソウルと地方を分ける境界線であると同時に、生死を分かつ境界線でもあった。 王も民も一生を終えた者は必ず都城の外に埋葬されるため、ソウルの人々にとって都城は「生きる」ことの証でもあった。
遠方から上京する人々にとって、ハニャン都城は喜びの象徴でもあった。 幾日もかけて歩き続けてきた人々はハニャン都城を遠目で見て、「やっとハニャンに着いたか」という安堵感に包まれたに違いない。特に科挙試験を受けるために上京したソンビ(儒学者)の場合は、都城の中での生活を目指して、昼夜を問わず本を読み続けてきただけに、彼らにとってハニャン都城は格別な意味があったのである。科挙試験を受けにきたソンビの中にはハニャン都城を一周しながら合格を祈った人も大勢いたと言われる。その光景が都城民たちに伝わり、「スンソンノリ(都城巡り)」という遊びに転じた。チョンジョ(正祖)時代の学者であるユ・ドゥッコン(柳得恭)は、『京都雑志』で、巡城ノリについて「都城を一周しながら都城内外の素敵な景色を眺める遊び」と説明している。彼の息子であるユ・ボンイェ(柳本芸、1777~1842年)も、『漢京識略』で、「春と夏になると、ハニャンの人々はペアを組み、都城の周囲を一周しながら景色を楽しむ」と記している。
ハニャン都城はソウルと地方を分ける第一の境界でもあったが、これらを一つに結ぶ媒介でもあった。 都城の中では採石が禁止されていたため、築城に必要な石はすべて城の外から調達せねばならなかった。 城壁はペガクサン(白岳山)・ナクタサン(駱駝山)・モンミョクサン(木覓山)・イヌァンサン(仁王山)の尾根の上に築かれているが、それに使われた石はプッカンサン(北漢山)とアチャサン(峨嵯山)の一帯から運ばれたものである。ハニャン都城は内四山と外四山を繋ぎ、都城内と城底十里(城外の十里)を統合していた。
ハニャン都城を中心に都城の防衛体制が完成した。 ハニャン都城は防御施設としての機能はさほど果たせなかった。壬辰倭乱(文禄の役)、丙子胡乱など、外部から侵略された時はもちろん、内乱の時でさえ都城を守るための戦いが行われたことはなかった。王をはじめとする支配層は都城を捨て、力のない農民だけが残って苦難に立たされることが繰り返された。百姓の間から、「頑張って城を築いても何ら役にも立たない」という不満の声が出るのも当然であろう。ヨンジョ(英祖)27年(1751)9月11日、ヨンジョは「都城を守ることは民のための事である。変乱が起これば、予が先に都城の上に駆け上り民と一緒に戦う」という内容の守城綸音を宣布し、都城を死守するとの覚悟を明らかにした。加えて、都城民にはそれぞれ担当区域を割り当て、有事の際は武器を持って担当区域を守るように命じた。都城民を主体とする都城の防衛体制が完成したのである。
[崗字六百尺 刻字城石]
ナムサン(南山) J-Gran House ビルの土台から「崗字六百尺」と刻まれた城石が見つかった。これはハニャン都城の97の区間のうち、崗字区間600尺の始発店という意味である。しかし、残念ながら刻字城石の元の位置は確定できない。ナムサン(南山)J-Gran Houseを建てる際に、城壁を取り壊した石材が石垣に使われたためである。
ナムサン会賢区間、ハニャン都城発掘現場
ナムサンの北西一帯の裾は、日本帝国が朝鮮神宮を建てながら城壁を壊した区間で、2013年に地面に埋もれていた城壁の一部(94.1m)が発掘された。テジョの時に初めて積み上げた石と、セジョンやスクチョン以後、補修を繰り返しながら積み上げられた石が次々と姿を現し、ハニャン都城600年の歴史を証言している。