ソウル 漢陽都城
ソウル市ウォールハイキングトレイル 城郭散策のご案内
ソウル 漢陽都城 [史跡 第10号]
ハニャン(漢陽)都城は朝鮮王朝の都であるハンソンブ(漢城府)都心のを示すことでその威厳を表わし、外部の侵入から都を守るために築造された城である。テジョ(太祖)55年(1396)に、ぺガクサン(白岳、北岳山)・ナッサン(駱駝山、駱山)・モンミョッサン(木覓山、南山)・イヌァンサン(仁王山)の内四山の尾根に沿って築造した後、幾度も改築が重ねられた。高さの平均が約5~8m、全長約18.6kmに及ぶハニャン都城は、現存する世界の都城の中で最も長い間(1396~1910、514年間)都城としての機能を果たした。
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ペガク(白岳)区間 <<ソウルペガクサン(白岳山)一帯、名勝第67号>; • 区段 :
チャンイムン(彰義門) ~ヘファムン(恵化門)
• 距离 :
4.7km •
所需时间 : 約3時間
チャンイムンからペガクサンを超えヘファムンに至る区間である。ペガク(白岳・北岳山、342m)は昔のソウルの主山で内四山の中で最も高く、コングクサン(拱極山)、ミョナク(面岳)とも呼ばれ、山の姿は「五分咲きの牡丹」に例えられるほど美しい。ハニャン(漢陽)都城はペガクサンを起点に築造された。1968年1・21事態以後、約40年近く立ち入りが制限されていたが、2007年から市民に開放された。
• 開場時間 : 年中無休。
冬(4ヵ月)(11月~2月)09:00~17:00(15:00まで立場)、春・秋(4ヵ月)(3月~4月/9月~10月)07:00-18:00(16:00まで立場)、夏(5月~8月)07:00-19:00(17:00まで入場)
• 探訪手続きの簡素化,身分確認の手続きを省略
交通案内
[チャンイムン(彰義門)] ❸キョンボッグン駅3番出口 →
支線バス7212番・1020番・7022番 → チャハムンゴゲ(紫霞門峠)」下車 → 徒歩2分
[スクチョンムン案内所] ❹ ハンソンデイプク駅6番出口 → 支線バス1111・2112番 → 「ミョンス学校」下車 → 徒歩20分
[マルバウィ案内所]
1) ❸ アングク駅2番出口 → マウルバス鍾路02番 → 「 ソ ンギュングァン(成均館)大学校・後門」下車 → 徒歩20分
2) ❺ クァンファムン駅2番出口
→ マウルバス鍾路11番 → 「サムチョン(三清)公園」下車 → 徒歩20分
[プクチョン村/ワリョン公園] ❹ ハンソンデイック駅6番出口
→ マウルバス城北03番 → 「パルガクチョン(八角亭)」 → 徒歩5分
[ヘ ファムン] ❹
ハンソンデイック駅5番出口 → 徒歩5分
- チャンイムン(彰義門)
- <宝物 第1881号> "チャンイムンはイヌァンサン(仁王山)とペガク(白岳)の交差地点にある門で、四小門の中では唯一、朝鮮時代の門楼がそのまま保持されている。この門楼は壬辰倭乱(文禄の役)の時に焼失されたがヨンジョ(英祖)17年(1741)に再建された。ヨンジョの時に門楼を新たに建てた際、インジョ(仁祖)反正時に反正の群れがこの門から都城に入ったことを記念するために、功臣らの名前を刻んだ扁額が掛けられたが、現在も当時のまま残されている。現在はチャハムン(紫霞門)として呼ばれることが多く、同門付近の景色がケギョン(開京)の景勝地であった チャハドン(紫霞洞)と類似していることから名づけられた。"
- ペガク(白岳)マル
- "都城で最も高く、
「ペガクサン、海抜342m」と書かれた標石
が立っている。ペガクマルからはキョンボッ
クン(景福宮)とセジョンロはもちろん、ハン
ガン(漢江)向かいの63ビルまで眺望できる。
最初の築城当時は工事区間を97に分け、千字
文の順に各区間の名前が付けられ、スタート
区間は「天」、最終区間は「弔」となってい
たが、ペガクマルは「天」の区間に該当する。"
- 1・21事態の松
- "ペガクマルからチョンウンデ(青雲台)まで下り
坂には「1・21事態の松」と呼ばれる木が立っている。樹齢約200
年の古木には15発の銃弾の跡が残っている。この銃弾の跡は1968年
1月21日、チョンワデ(青瓦台)の襲撃を狙って侵入した北朝鮮の特殊
部隊員たちと韓国の軍警が交戦した跡である。この当たりから城外を
眺めると、プッカンサン(北漢山)とペガクマルの間にある位置するピ
ョンチャンドン(平倉洞)が一目で入る。ピョンチャンドンという地名
は宣恵庁の倉庫である平倉があったことに由来する。"
- 暗門の外、巡城道
- 朝鮮時代の都城の内外には、兵士たちが巡回する巡城道があった。
朝鮮後期には御営庁・禁衛営・訓練都監の三軍門がそれぞれ8つの区域に分け都城の周
辺を巡回した。
- ペガク(白岳)曲城
- 曲城とは主要な地点や施設を効率よく守る
ために一部を丸く突出させた城壁のことで、イヌァンサンとペガク
サンに1カ所ずつある。このうち、ペガク曲城は一般人に開放されて
おり、都城を囲むソウルの山勢が最もよく見える場所と言われる。
- スクチョンムン(粛靖門)
- スクチョンムンはハニャン(漢陽)
都城の北大門である。最初は粛清門と名付けられていたが、後に
粛靖門に改名された。現存する都城門のうち、左右両側に壁が繋
がっているのは唯一スクチョンムンしかない。1976年に新たに門
楼が建てられた。
- マルバウィ案内所と優秀景観眺望名所
- "マルバウィとはサムチ
ョン(三清)公園の中にある岩のことで、この名前の由来については諸
説がある。ペガクの端にある岩という意味で末(マル)の岩(バウィ)と名
付けられたという説や、馬に乗ってきた人々が山に登る前にこの岩に
馬をつなぎ止めたことから馬(マル)バウィと名付けられたという説な
どがあるが、後者の方が有力視される。東尾根に沿ってペガクに登る
途中で急傾斜になる地点を指す。ここからはソンブクグ(城北区)方面
の眺め、チョンノグ(鍾路区)方面の眺めがよく、優秀景観眺望名所と
なっている。優秀景観眺望名所は、スクチョンムン(粛靖門)案内所、
マルバウィ案内所、サムチョン(三清)公園、ワリョン(臥龍)公園への道
が分かれる分岐点なので、案内標識をよく確認する必要がある。"
- プクチョン(北村)韓屋村
- "プクチョンとはキョンボックン
(景福宮)とチャンドクグン(昌徳宮)の間に位置する村の昔の名称で、
現在のチェドン(斎洞)、カフェドン(嘉会洞)、ケドン(桂洞)、サムチ
ョンドン(三清洞)一帯を指す。古くから宗親や高官が多数住んでい
たため屋敷が多かった。現在残っている朝鮮末期の建築物にはアン
グクドン(安国洞)にあるユン・ボソン(尹潽善)の家が唯一で、ハン・
サンニョン(韓相龍)の家、キム・ソンス(金性洙)の家など1910~20
年代に建てられた建物も幾棟か残っているものの、ほとんどの韓屋
はすべて1930年以降に建てられた都市型の韓屋である。"
- プクチョン村
- ワリョン公園の脇から都城内側の道に沿って歩
くと、ソンブクドン(城北洞)に抜けるアンムン(暗門)が現れるが、
プクチョン村はアンムンの外に広がる絵のような町一帯を指す。
プクチョン村にはかつてマンへハン・ヨンウン(萬海韓龍雲)先生が住ん
でいた「シムジャン(尋牛荘)」と「ソンブクドン鳩」の作家として有名
なキム・グァンソプ(金珖燮)詩人が住んでいた家がある。城壁の下には
約500世帯の家がたて込んでおり、1960~70年代のソウルの趣を感
じることができるので、ドラマや映画のロケ地としても人気である。
- ソウル漢陽都城の跡
- キョンシン(儆新)高等学校の裏道からヘフ
ァムンに続く路地は城壁がひどく破損され、痕跡だけが所々残っ
ている。キョンシン高等学校の裏門は城壁が学校の塀として使わ
れている。キョンシン中・高校を通り過ぎると、「L字」の形に
折れた住宅の塀の下に城石が土台に使われていることがわかる。
へソン(恵聖)教会階段の両 側にも城壁の一部が残っている。
途切れながらも続くハニャン都城の城壁は途中で100mほど跡形
も見えなくなるが、トゥサン(斗山)ヴィラ建物の前で再び現れ、
旧ソウル市長公館の塀まで150mほど続く。
- ヘファムン(恵化門)
- "ハニャン(漢陽)都城の東北門である。
創建当時はホンファムン(弘化門)という名称だったが、チャンギョングン
(昌慶宮)正門の名前がホンファムンになったことで、チュンジョン
(中宗)6年(1511)にヘファムンに改称した。当初は門楼がなかったが、
ヨンジョ(英祖)時に建てられた。門楼は1928年に、虹霓は1938年に
取り壊されたが、1994年に元の位置より北側に建て直された。"
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ナッサン区間 • 区間 : ヘファムン(恵化門) ~ フンインジムン(興仁之門)
• 距離 : 2.1km •
所要時間 : 約1時間
ヘファムン(恵化門)からナッサン(駱山)を過ぎてフンインジムンに至る区間である。ナッサン(124m)はソ
ウルの左青龍に当たる山で、内四山の中で最も低い。山の形が駱駝に似ていることからナクタサン(駱駝山)またはタラ
クサン(駝駱山)と呼ばれる。ナッサン区間は傾斜が緩やかなのでゆっくり散策するように歩いてもよいコースである。
カトリック大学校の裏道は築造時期別の城石形状の変化が観察できる。
• 開放時間 : 24時間 • 注意事項 : チャンスマウル(長寿村)とイファマウル(梨花村)を通る時は住民の迷惑にならないように気を付けること。
交通案内
[ナッサン入口] ❹ ハンソンデイック駅4番出口 → 徒歩3分 / ❹ ヘファ駅1番出口 → 徒歩5分
[ナッサン公園の頂上] ❹ ヘファ駅2番出口 → 徒歩15分/ ❶❹
トンデムン駅5番出口
→ マウルバス鍾路03番
→ 「ナッサン(駱山)三叉路」下車
[ナ ッサン公園/イファマウル] ❹ ヘファ駅2番出口 → 徒歩20分
[ト ンデムン城郭公園] ❶❹
トンデムン駅10番出口
→ 徒歩2分
- ヘファムン(恵化門)
- ハニャン(漢陽)都城の東北門である。
創建当時はホンファムン(弘化門)という名称だったが、チャンギョングン
(昌慶宮)正門の名前がホンファムンになったことで、チュンジョン
(中宗)6年(1511)にヘファムンに改称した。当初は門楼がなかったが、
ヨンジョ(英祖)時に建てられた。門楼は1928年に、虹霓は1938年に
取り壊されたが、1994年に元の位置より北側に建て直された。
- チャンスマウル(長寿村)
- "ナッサン公園の東南側の壁を挟んで
いる小さな町で、韓国戦争後にできた低所得者地域に由来し、60歳以
上の高齢者の居住人口が多いため名付けられた村である。ニュータウ
ン予定地となっていたが、住民投票によりニュータウン再開発計画が
中断され、村の再生事業を行うことになった。その後、住民自らが家
を改装したり、路地を整備したりして、現在のようにアットホームで
小奇麗な町に生まれ変わり、住民参加型の町再生事業の成功事例とし
て挙げられている。"
- ナッサン(駱山)公園
- "チャンスマウル(長寿村)からアンムン
(暗門)を通じて都城の中に入るとナッサン公園ノリマダンが現れる。
ナッサン公園はソウルのモンマルトルの丘と呼ばれるほど眺めが良い
場所である。ここから眺める夕日と夜景はとりわけ美しい。ペガク
(白岳)とイヌァンサン(仁王山)からはソウルの遠景が眺められるのに対し、
ここからは都心が手に取るように見える。"
- イファマウル(梨花村)
- イファ村はナッサン区間城壁のすぐ内
側にある村で、老朽化した住宅が多く、路地も狭いため貧困地域と
して知られていた。しかし、政府の支援の下、2006年から芸術家
たちが建物の外壁に絵を描いたり、空き地にオブジェを設置したり
して、明るくて華やかな町並みに生まれ変わった。同村はナッサン
の頂上部まで続くが、一番上の階段まで上ると、ハニャン都城が垣
根のように村を包み込んでいることがわかる。都城の中に造られた
古い町の風情が漂う。
- チャンシンドン(昌信洞)ポンジェマウル
(縫製村_採石場の跡地)
- ナッサン城壁の外側に当たるチャンシンドン一帯は朝鮮時代に退
職した女官たちの集落地だった場所である。1960年代からはトン
デムン(東大門)市場に衣料品を納品する下請け業者が集まり始め、
韓国縫製産業の中心地となった。この付近には高さ40m、長さ
201mの切り立った絶壁の岩山があるが、大韓帝国期から日本統治
時代まで採石場として使われていた。トッスグン(徳寿宮)の石造殿
をはじめ、日帝強占期にソウルで建てられた石造建築物の多くには
チャンシンドン採石場から運ばれた石が使われた。現在は、採石場
の下から絶壁の上まで家が密集していて珍しい光景を見せる。
- 工事実名制と刻字城石
- 築城に関する文字が刻まれた石を刻字城石(刻字城石)と言う
が、ハニャン都城の全区間のうち、トンデムン城郭公園付近で最 も多く見られる。城郭
を整備する過程で発見された刻字城石を集めておいたからである。テジョ(太祖)・セジ
ョン(世宗)の時代の刻字城石には、区間名と区間別築城担当の郡県名が、朝鮮中期以降
の刻字城石には監督者と責任技術者の名前、日付などが明記されている。右の写真の刻
字城石はナッサン区間が終わる位置の都城外側で見られる。
- フンインジムン(興仁之門)
- <宝物第1号> ハニャン(漢陽)都城の東大門である。現在のフンインジムンはコジョン(高宗)6年(1869)に再建されたもので、朝鮮後期の建築様式がよく表れており、宝物第1号に指定されている。ソウルは西高東低の地勢であるため、軍事的にはトンデムン(東大門)が最も不利だった。トンデムンの外側に瓮城をもう一つ築いたのもそのためである。1907年、左右の城壁が取り壊され、現在の姿になった。
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フンインジムン(興仁之門)区間 • 区間 : フンインジムン(興仁之門) ~ チャンチュン(奨忠)体育館
• 距離 :
1.8km •
所要時間 : 約1時間
ソウルハニャン(漢陽)都城の痕跡を追う:フンインジムン(興仁之門)コース
城壁探訪は、このフンインジムンコースから始まり、クァンヒムン(光熙門)を経由してチャンチュン(奨忠)体育館までのコースとなります。フンインジムン一帯は、都城の中で最も低地にあり、城内の水がここに流れ込むようになっていました。このため、オガンスムン(五間水門)とイガンスムン(二間水門)の水門(水門がそれぞれ五つのアーチと二つのアーチで構成)は、ソウルハニャン(漢陽)都城の中から城壁の外へ水が流れるように造られています。
また、ハドガム(下都監:訓練都監傘下の施設)、ヨムチョチョン(焰硝庁:火薬管理部署)、フルリョヌォン(訓練院)など、多くの軍事関連施設もこの周辺にあったとされています。大韓帝国時代にはこの場所に路面電車の線路が敷かれ、日本の植民統治時代には新しい道路とキョンソン(京城)スタジアムが建設されました。解放後には、この通りは拡大され、周辺に新しい建築物が建てられるようになりました。これらの開発事業により、以前の城壁の大半が破壊されてしまいましたが、現在はイガンスムンが元の場所に復元されている他、下都監と推定される遺構が「トンデムン(東大門)歴史文化公園」の中に一般展示されています。ソウルハニャン(漢陽)都城のこのコースを訪問する際は、トンデムンデザインプラザやトンデムン市場の近くにあるピョンファ(平和)市場やパンサン(放散)市場に寄ってみることもできます。
• 注意事項 : Tクァンヒムン(光熙門)からチャンチュン体育館方面への道は民家地域に当たり、民家の迷惑にならないようにすること。
交通案内
[フンインジムン] ❶❹ トンデムン駅6・7番出口 → 徒歩1分
[トンデムン(東大門)歴史文化公園]
❶❹
トンデムン駅7番出口 → 徒歩10分 /
❷❹❺
トンデムン・ヨッサムンファゴンウォン駅2番出口 → 徒歩2分
[チャンチュン(奨忠)体育館] ❸ トンデイック駅5番出口 → 徒歩2分
- フンインジムン(興仁之門)
- <宝物第1号> ハニャン(漢陽)都城の東大門である。現在のフンインジムンはコジョン(高宗)6年(1869)に再建されたもので、朝鮮後期の建築様式がよく表れており、宝物第1号に指定されている。ソウルは西高東低の地勢であるため、軍事的にはトンデムン(東大門)が最も不利だった。トンデムンの外側に瓮城をもう一つ築いたのもそのためである。1907年、左右の城壁が取り壊され、現在の姿になった。
- トンデムン(東大門)市場
- 1905年に韓国初の民営都市常設市場として開場したクァンジャン(広蔵)市場が嚆矢である。韓国戦争以降、
トンデムン一帯の商圏はクァンジャン市場を起点に東へ広がり、
現在ではチョンゲチョン(清渓川)沿いにクァンジャン市場・パンサン(芳山)市場・トンデムン総合市場・ピョンファ(平和)市場などが立ち並ぶ。この巨大な市場一帯は世界的な衣類、ファッション産業の中心地である。近くの国立医療センターの敷地は元々朝鮮時代の訓練センターがあった場所である。市場の向かい側にはキリル文字の看板が並ぶ中央アジアタウンが形成されている。ロシア・ウズベキスタン・モンゴル・カザフスタンなどから来た人々がこの一帯に住み着いて造成された通りである。
- オガンスムン(五間水門)の跡地とイガンスムン(二間水門)
- <<史跡第461号(オガンスムンの跡地)> フンインジムンとクァンヒムンの間にはかつてオガンスムンとイガンスムンがあった。この付近はソウルで最も地形が低いため、内四山から流れ落ちる水はすべてここを通って都城の外へ流れていった。城壁とチョンゲチョンが交差する場所には水門が続いていた。トンデムン運動場の観客席の下に埋れていたイガンスムンは円形に近い姿が残っているが、オガンスムンは跡形もなくなっており、かつてオガンスムンがあった場所が史跡に指定されているだけである。
- トンデムン歴史文化公園(旧トンデムン運動場の跡地)
- 昔のトンデムン運動場の跡地に造成された公園で、朝鮮後期には訓練都監の別営である下都監と火薬製造官署である焰硝庁があった場所である。1925年、日本はここにキョンソン(京城)運動場を建設したが、
城壁を利用して観客席を作った。解放後、キョンソン運動場はソウル運動場に改称され、その後の「88オリンピック(第24回ソウルオリンピック)」以後、トンデムン運動場に改名された。2007年、
近現代の韓国スポーツの中心地であった同運動場が取り壊されたが、
当時の解体作業の過程で、地下に埋もれていた城壁の一部とイガンスムン(二間水門、ナムサン(南山)から流れる水が都城の外に抜けられるように作った二間の水門)、雉城( 城壁の一部を突出させて、
敵から守るための施設)、下都監と推定される建物の遺構などが大量に出土した。現在のイガンスムンは元の場所にあるが、トンデムンデザインプラザ(DDP)の場所にあった建物の遺構は公園の中に移された。その場所で出土した遺物はトンデムン歴史文化公園内のトンデムン歴史館1398で見ることができる。
- クァンヒムン(光熙門)
- ハニャン都城の東南門で、シグムン(屍口門)またはスグムン(水口門)と呼ばれていた。日本統治時代に一部が崩れ、1960年代のトェゲロ工事の際に半分ほど取り壊されたが、1975年に元の位置から南に15m離れた現位置に再建された。
- チャンチュンドン(奨忠洞)住宅地域
- クァンヒムン城壁に沿ってチャンチュンドン住宅街に入ると、ハニャン都城は再び姿を消す。1930年代に東洋拓殖株式会社がこの一帯に文化住宅団地を造成した際に、ハニャン都城のかなりの部分を取り壊した上、
解放後、1960~70年代も新築が建てられる際に城壁が破壊されたためである。
現在、この当たりの城石は住宅の塀や土台として使われている
-
ナムサン(南山、木覓山)区間
• 区間 : チャンチュン(奨忠)体育館 ~ ペクポム(白凡)広場
• 距離 : 4.2km
• 所要時間 :
約3時間
チャンチュン体育館の裏道からナムサン公園に至るまでの区間である。ナムサン(南山・木覓山、海抜
270m)はソウルの案山とされ、朝鮮初期から国泰民安を祈る国師堂が設置されていた。また、頂上は辺境の変乱
を知らせるポンス(烽燧)台を設置し、宮廷から直接探知できるようにした。ハンガン(漢江)の南北を見下ろす現在
のナムサンは、ソウルの行政区域上の中央部であり、頂上付近にはソウルの地理的中心地であることを表示する
「ソウル中心点の標識石」が立てられている。1921年から1925年まで、日本帝国がナムサンの中腹に朝鮮神宮を
建てた際に周辺の城壁をほとんど取り壊したが、1970年代以降の城郭の保存・整備事業と、1990年代半ばから始
まった「ナムサンの昔の姿を取り戻す」事業を通じて、現在ではかなりの部分昔の姿が取り戻されている。
• 開放時間 : ナムサン- 24時間開放
スンニェムン - 年中常設(月曜日休み)観覧時間 :09:00∼18:00
夏季(6月∼8月) 09:00~18:30、 冬季(11月∼2月) 09:00~17:30
• 区間情報: ナムサンコル・ハノクマウル(南山韓屋村)のイベントスケジュールを事前に調べておくと、様々なイベントを楽しむことができる。
交通案内
[ナムサンコル・ハノクマウル] ❸ ❹
チュンムロ駅4番出口 → 徒歩1分
[チ ャンチュンダン(奨忠壇)公園] ❸ トンデイック駅6番出口 → 徒歩1分
[チ ャンチュン体育館] ❸ トンデイック駅5番出口 → 徒歩2分
[ナムサン公園バス停] ナムサン循環バス02・03・05番 → 「ナムサンゴンウォン(南山公園)」下車k
[ソウル市立ナムサン図書館] ナムサン循環バス02・03・05番 → 「ナムサンドソグァン(南山図書館)」下車
[ペクポム広場] ❹ フェヒョン駅4番出口 → 徒歩5分 / ❹ ミョンドン駅3番出口 → 徒歩10分
- 国立劇場
- 1973年チャンチュンドン(奨忠洞)に建設された国立公
演・芸術総合劇場である。1974年の光復節慶祝行事の際にユク・ヨ
ンス(陸英修)夫人が狙撃された場所でもある。ヘオルム劇場(大劇場)、
タロルム劇場(小劇場)、ピョロルム劇場、ハヌル劇場(円形野外ステージ)
などがある。
- ソウル中心点
- ソウルの真ん中はどこだろうか。衛星航法装置(GPS)で測定した結果、ソウ
ルの地理的な中心点はナムサンの頂上部にあることが確認された。この場所にはソウルの中
心点であることを示す造形物が設置されている。
- Nソウルタワー
- ナムサンの頂上に聳え立つ展望塔で海抜480m
の高さから360度回転しながら、ソウル市全域を一望できるスポ
ットである。1969年に首都圏のTVやラジオの電波を送出する総
合電波塔として建てられたが、1980年から一般人に公開された。
それ以後、大々的な補修工事を終え、2005年に複合文化空間であ
るNソウルタワーとしてリニューアルオープンした。 展望台2階で
ははハニャン都城に関連する様々な物語に出会える。
-
• 開放時間 : Nソウルタワー展望台利用時間 - 月曜日~金曜日/日曜日10:00∼23:00 | 土曜日 10:00∼24:00
-
※Nソウルタワー展望台2階(T2)ではソウル漢陽都城に関する様々な物語に出会える。
* ナムサンロープウェイ運行時間 - 上午前10時~午後11時(金・土・休日の前日は、状況に応じて1時間延長運行)
- ナムサン(南山)八角亭と国師堂の跡地
- ナムサン八角亭の場所に
は元々朝鮮時代の国師堂があった。朝鮮時代のテジョ(太祖)王はナ
ムサンを木覓大王として考え、ナムサンでは国泰民安を祈願する国
の祭祀だけ行うようにした。1925年に日本帝国がナムサンに朝鮮
神宮を建てた際にイヌァンサン(仁王山)の麓に移転された。第1共
和国の時に国師堂の元の場所にタプゴル公園のパルガクチョンの
ようなあずま屋を建ててイ・スンマン(李承晩)大統領の雅号を取り
「ウナムジョン(雩南亭)」と名付けたが、4•19革命以降、パルガ
クチョンに改称された。
- モンミョッサン(木覓山)烽燧台の跡地
- <記念物第13号> モンミ
ョクサン烽燧台は朝鮮時代、全国八道で上げる烽燧(烽火)の終着点
であった。烽燧とは昼は煙で、夜は明かりに辺境の情勢を知らせ
る視覚信号を指す。平時には1つの烽燧を上げ、変乱が起きた場合
は緊急度に応じて、2つから5つまで上げた。モンミョッサン烽燧
台はセジョン(世宗)5年(1423)に設置され、1895年までの約500年
間使われた。現在の烽燧台は1993年に推定復元したものである。
- チャムドゥボン(蚕頭峰)フォトアイランド
- ナムサン西の峰は蚕
の頭に似ていることから、昔からチャムドゥボンと呼ばれてきた。
チャムドゥボン展望台からは内四山に囲まれた都心のビル街が一望
できる
- ナムサン(南山)・フェヒョン(会賢)裾の遺構発掘現場
- ナムサンのアン・ジュングン(安重根)義士記念館周辺は
1925年に日本帝国が朝鮮神宮を建てた際に城郭が取り壊された場所である。ソウル市は2013年ハニャン都城
保存管理事業の一環として、この一帯の発掘作業を開始したが、発掘の結果、地面に埋もれていた城の基底部
が非常に良好な状態で姿を現した。発掘遺構は朝鮮時代の築城技術と石材の変遷過程を示す貴重な資料になる。
- ナムサンコル・ハノクマウル(南山韓屋村)
- ソウル各地に点在し
ていた韓屋を移転、再建し、1998年にオープンした都市公園。
日本統治時代には憲兵隊司令部があり、解放後は首都防衛司令部が
あった敷地を1989年にソウル市が買い取り公園に造りなおした。
公園は自然に馴染む形で造成されており、ピルドン(筆洞)から入る
入口には、ヘプンブウォングン(海豊府院君)・ユン・テギョン(尹沢
栄)斎室、クァンフンドン(寛勲洞)ミン(閔)氏家屋、都片手・イ・ス
ンオプ(李承業)家屋、五衛将・キム・チュニョン(金春営)家屋など、
朝鮮後期と開花期に建てられた韓屋が集められている。韓屋敷地の
南側には、「ソウル定都600年」を記念しタイムカプセルが埋めら
れているが、「ソウル定都1000年」になる2394年に取り出される
予定である。
-
スンニェムン(崇礼門)区間 • 区間 : ペクポム(白凡)広場 ~ トニムン(敦義門)の跡地
• 距離 :
1.8km •
所要時間 : 約1時間
現代化と城壁の破壊:スンニェムン(崇礼門)コース
スンニェムン(崇礼門)コースは、ペクポム(白凡)広場から始まり、スンニェムン(崇礼門)を経由してトニムン(敦義門)に至るコースです。スンニェムン(崇礼門)は都の玄関であり、南側の城壁として、ハンガン(漢江)に最も近い位置にあります。したがって、城内に入っていくほとんどの人や物がこの門を通じて出入りしていました。朝鮮時代末期、商業活動が盛んに行われていた時代に、城内の中では官憲倉庫の前で朝市が開かれ、城外ではチルペ(七牌)市場が開かれていました。七牌市場は、チョンノ(鍾路)やイヒョン(梨峴)と共に、都の最も大きな三大市場として最盛期を迎えました。当時の朝市は現在のナムデムン(南大門)市場へとその様相が受け継がれています。1876年、日本との通商条約が調印され、その後それに類似した通商条約が朝鮮と西洋列強との間に結ばれるようになり、ソウルは外部世界へ門戸を開放することとなりました。西洋諸国の公使館や外交官の屋敷は、西洋からの宣教師たちによって建てられた教会や学校と共にナムデムンから近いチョンドン(貞洞)地域に集中して建設されました。
最初の路面電車線路は1899年、ソウルに開通しました。この頃はすでにスンニェムン(崇礼門)の本来の機能は廃れ、スンニェムン(崇礼門)の両側の城壁も、交通上の目的で1907年に崩されました。その後も、新しい建物がスンニェムン(崇礼門)周辺に建てられることで、さらに多くの城壁が破壊され、城壁の痕跡を追うこともままならなくなりました。現在このコースは、2ヶ所の城壁のみ復元されています。本来の城壁跡の低い部分が、韓国産業通商資源部から「オリーブタワー」へつながる路地に沿って残っている他、チャンドク(昌徳)女子中学校に50mの古い城壁の跡が残っています。
• •一口メモ: スンニェムン(崇礼門)コースは、ソウルハニャン(漢陽)都城の本来の城壁コースの追跡がしにくいという若干の事前情報が必要です。
交通案内
[チョンドンギル] ❶❷
シチョン駅10番出口→ 徒歩5分
[トッスグン(徳寿宮)] ❶❷
シチョン駅2番出口→ 徒歩1分
[スンニェムン] 京義空港 · ソウル駅 · ❶❹ 4番出口→ 徒歩5分
[ナムデムン(南大門)市場] ❹ フェヒョン駅5番出口→ 徒歩1分
- スンニェムン(崇礼門)
- <国宝第1号. 1>
ハニャン(漢陽)都城の南大門であり、正門である。1395年に建て始め、1398年に完成したが、
1448年と1479年に2回改築された。1907年、交通の妨げになるという理由により、左右の城壁が取り壊されてからは文化財として温存されてきた。ソウルで最も古い建物であったが、2008年2月の火災で木造2階の門楼が毀損され、2013年5月に修復された。
-
• 開放時間 : スンニェムン観覧時間 - 年中常設(月曜日休み)時間 :09:00~18:00
夏季 : 09:00~18:30(6月∼8月) / 冬季 : 09:00~17:30(11月∼2月)
- ナムデムン(南大門)市場とチルぺ(七牌)市場
- ナムデムン市場は1897年1月にオープンした韓国初の都市常設市場である。
朝鮮時代初め、ここには常平倉があったが、17世紀に大同法の施行により宣恵庁の倉庫に変わった。1894年租税納貨の措置に従い、
現物を保管する必要がなくなったため、商人たちが市場として使えるようにした。ナムデムンの外にはチルぺ市場があるが、チョンヌ
(鐘楼、鍾路十字路)、イヒョン(梨峴、フンインジムン(興仁之門) 内)
と朝鮮後期の3大市場の一つとして言われる。チルペという名称はここが御営庁第7牌の巡邏ギルであったことから名付けられた。
- ソイムン(昭義門)の跡地
- 四小門の一つで都城の西南門である。
1396年都城と一緒に築造されたが、最初の名称はソドンムン
(昭徳門)であった。ヨンジョ(英祖)20年(1744)に門楼を改築した際にソイムンに改称された。クァンヒムン(光熙門)と同様、城の外に遺体を運ぶ門として使われていた。1914年、日本帝国の市区改修事業の際に取り壊され、現在はソイムンの跡地であることを示す標石が残っているだけである。
- 旧ロシア公使館
- <史跡第253号> コジョン(高宗)27年(1890)に完成したルネサンス様式の建物で、丘の上に佇むチョンドンの象徴的な建築物であった。乙未事変以後、身辺に危険を察したコジョンが1896年2月に同建物に避難して1年間を過ごした(俄館播遷)。韓国戦争中、建物のほとんどが破損され上部だけが残っていたが1973年に現在の姿に整備され、その後も2007年と2010年の二度にわたり補修工事が行われた。旧ロシア公使館の跡地は現在チョンドン(貞洞)公園に造成されている。
- チョンドン(貞洞)教会
- <史跡第256号> アメリカ人宣教師アッペンツェラーが設立した韓国初のメソジスト派教会である。ゴシック風の赤レンガの建物で、1895年に着工、1897年に完成した。近くのペジェ(培材)学堂・イファ(梨花)学堂と共に開花期にアメリカの文物を取り入れた通路として役割を果たした教会である。
- イファ(梨花)女子高等学校・シンプソン記念館
- <登録文化財第3号> 1915年に竣工した旧イファ学堂の校舍で、現在イファ博物館として使われている。イファ学堂は1886年、アメリカメソジスト派女宣教師であるメアリー・F・スクラントンが創設した韓国初の女性教育機関で、イファ学堂という名前は1887年にミョンソン(明成)皇后により命名された。学校の敷地内にはユ・グァンスン(柳寛順)烈士が洗濯の際に使っていた井戸や、「韓国女性の新教育発祥の地」記念碑、ユ・グァンスンの銅像、ソンタク(孫沢)ホテル跡地を示す標石などがある。
- トニムン(敦義門)の跡地
- 都城の西大門であるトニムンがあっ
た場所である。トニムンはテジョ(太祖)の時代に初めて建てられた
が、テジョン(太宗)13年(1413)に建てられたソジョンムン(西箭門)
が西大門の機能を果たしていた。しかし、その場所がどこだったか
は定かではない。セジョン(世宗)4年(1422)に都城を大々的に修築
した祭にソジョンムンを閉め現在のトニムンの跡地に新しいトニム
ンを建てた。それ以後、トニムンはセムンまたはシンムン(新門)も
呼ばれ、現在のシンムンロという地名はこれに由来する。日本帝国
は1915年に西大門を通る電車を開通したが、その際にトニムンを
解体し建材として売却した。現在トニムンの跡地には公共
美術品「見えない門」が設置されている
-
イヌァンサン(仁王山)区間 • 区間 : トニムン(敦義門)の跡地 ~ チャンイムン(彰義門)
• 距離 :
4km • 所要時間
: 約2時間30分
トニムンの跡地から始まりイヌァンサンを越えてユン・ドンジュ(尹東柱)詩人の丘まで続く区間である。
海抜339mのイヌァンサンは風水上右白虎に当たる。巨大な岩が露出している岩山で、チマバウィ(岩)、ソンバウィ
(禪岩)、キチャバウィ(汽車岩)など奇岩怪石が多い。仁王という名は仏教式名称で、ムハク(無学)大師がこの山を主
山に祀ると仏教が隆盛すると言い残したことから名付けられた。1968年、1・21事件以後民間人の出入が統制され
ていたが1993年から民間人に開放された。
• 開放時間 : 24時間(毎週月曜日休み、月曜日が祝日の場合は火曜日休み)
• ユン・ドンジュ(尹東柱)文学館 - 夏季(3~10月)10:00~18:00 / 冬 季(11月~2月)10:00~17:00
(毎週月曜日、秋夕・旧正月連休休み)
• 注意事項: イヌァンサンは岩石が多いため、冬季の登山時は注意しなければならない。 • 区間情報: サジクダン(社稷壇)では毎年9月第3日曜日にチョンジュ(全州)イ(李)氏テドンジョンヤグォン(大同宗約院)の主管で社稷大祭(重要無形文化財第111号)
が開かれる。
交通案内
[トニムンの跡地]
❺ ソデムン駅4番出口 →徒歩2分
foot / マウルバス鍾路05番 → 「カンブク(江北)サムスン病院」下車 → 徒歩1分
[キョンヒグン(慶熙宮)] ❺ クァンファムン駅1番出口 → 徒歩5分
[サジクダン(社稷壇)] ❸ キョンボックン駅1番出口 → 徒歩5分
[イヌァンサン国師堂] ❸ トンニンムン駅2番出口 → 徒歩20分
[イ ヌァンサン(頂上方面)] ❸ ムアクジェ駅2番出口 → 徒歩30分
[ イ ヌァンサン(頂上方面)] ❸ キョンボッグン駅3番出口 → マウルバス鍾路09番 → オギンアパート」下車 → 徒歩30分
[ イ ヌァンサン(キチャバウィ(汽車岩)方面)] ❸ホンジェ駅2番出口 → マウルバス鍾路07番 → 「ケミマウル(蟻村)」下車 → 徒歩15分
[ ユ ン・ドンジュ詩人の丘] ❸ キョンボッグン駅3番出口 → 支線バス7212、1020、7022番 →
「 チ ャ ハムンゴゲ(紫霞門峠)」下車 → 徒歩2分
- トニムン(敦義門)の跡地
- た場所である。トニムンはテジョ(太祖)の時代に初めて建てられた
が、テジョン(太宗)13年(1413)に建てられたソジョンムン(西箭門)
が西大門の機能を果たしていた。しかし、その場所がどこだったか
は定かではない。セジョン(世宗)4年(1422)に都城を大々的に修築
した祭にソジョンムンを閉め現在のトニムンの跡地に新しいトニム
ンを建てた。それ以後、トニムンはセムンまたはシンムン(新門)も
呼ばれ、現在のシンムンロという地名はこれに由来する。日本帝国
は1915年に西大門を通る電車を開通したが、その際にトニムンを
解体し建材として売却した。現在トニムンの跡地には公共
- キョンギョジャン(京橋荘)
- <史跡第465号> 1945年の大韓民国
臨時政府の還国から1946年まで事実上の臨時政府庁舎として使われ
た建物で、国務委員会の開催及び信託統治反対運動の主な舞台とな
った。また、主席キム・グ(金九)が約4年間(1945~1949)過ごし逝
去した歴史の現場である。逝去後、60年中国大使館、ベトナム大使
館、病院施設などに使われてきたが、2013年3月、キム・グ先生が
居住した当時の臨時政府活動地として復元され市民に開放された。
- ソウル漢陽都城の跡
- 最近ウォラム(月岩)近隣公園に沿って新たに城壁が築かれた。公園造成の途中、ソウル市福祉財団(旧気象庁)
建物の垣根土台の下に埋もれていた城壁の一部が見つかった。ホンパドンホン・ナンパ家屋の周辺にある集合住宅の駐車場裏にも
城壁の跡が残っている。
- ホンパドン(紅把洞)ホン・ナンパ(洪蘭坡)家屋
- <登録文化財第90号> 「鳳仙花」、「故郷の春」などで有名な作曲家、ナンパ・ホ
ン・ヨンフ(蘭坡洪永厚、1898~1941)が住んでいた家。彼の代表
曲のほとんどはこの家で創られた。 1930年代の洋風住宅の様式が
綺麗に保存されている。
- Dilkusha(テイラー家屋)
- Dilkushaはアメリカ人の金鉱技術
者であり、UPIソウル特派員を務めながら3・1運動を世界に知らせ
たアルバート·テイラーが建てて 1923年から1942年まで過ごした
洋風建築物である。Dilkushaとはヒンディー語で「希望の宮殿」と
いう意味で、長い間ベールに包まれていた建物の由来は、2006年
にアルバートの息子であるブルース・テイラーの訪韓によって世に
知られた。Dilkushaのすぐ隣には樹齢450年以上のイチョウの木が
あるが、ヘンジュ(幸州)大捷を率いたクォン・ユル(権慄)将軍の家
にあった木だと伝わっており、ヘンチョンドン(杏村洞)という地名
はこの木に由来する。
- イヌァンサン国師堂とソンバウィ(禪岩)
- <<重要民俗文化財28号>
朝鮮テジョの時代にナムサン(南山)に建てた国の神堂である。日本帝
国がナムサン中腹に朝鮮神宮を建てた際に国師堂が取り壊されたた
め、ここで祭礼を行っていた巫師らがイヌァンサン西裾に国師堂を移
し、私設巫俗神堂に建て替えた。国師堂上部にあるソンバウィ(禪岩)
は僧帽を被って袈裟をまとった僧侶が座禅する形をした岩である。仏
教を排斥していたチョン・ドジョン(鄭道伝)がハニャン(漢陽)都城の
境界を定める際に、ソンバウィ(禪岩)をわざと外したと伝えられる。
- キョンボックン(景福宮)西側の韓屋村(上村、ウデ)
- イヌァ
ンサンとキョンボックンの間にある韓屋村には日帝時代に建てられた
都市型韓屋が多数残されている。朝鮮後期には、サンチョン(上村)、
ウデとも呼ばれた。秀麗な山勢や綺麗な水に恵まれていたため、この
一帯には王族、高官顕職の家や別荘はもちろん、末端管理人である
京衙前の家も多数あった。「上村」という言葉は京衙前の同義語であ
った。朝鮮末期には中人階級の人や知識人の詩会の場所としてよく利
用され、閭巷(村里)文学の中心地となっていた。近代以降は、詩人の
イ・サン(李箱)、ユン・ドンジュ(尹東柱)、画家のノ・チョンミョン(盧
天命)、イ・ジュンソプ(李仲燮)、チョン・ギョンジャ(千鏡子)、イ・
サンボム(李象範)などがこの一帯に居住しながら創作活動を行った。
- 築造時期別の築城方法の違いが確認できるスポット
- イヌァンサン区間でも時期別の築城方法の違い
が確認できる場所がある。頂上からチマバウィを通り過ぎるとタンチュンデソンで分かれ道が現れる。
ここからは城内外に道が整備されているが、城外の道を歩きながら城石の形に注目してみよう。
テジョ(太祖)・セジョン(世宗)・スクチョン・スンジョ(純祖)の時代やその後の時代まで築かれた城石が混
在し、その区間もかなり長く続く。
- ユン・ドンジュ(尹東柱)詩人の丘とユン・ドンジュ文学館
- ユン・ドンジュ詩人の文学精神を称えるために造成した公園で、
イヌァンサン麓の西の端、チャンイムン付近にある。ユン・ドン
ジュはヨンヒ(延禧)専門学校の在学中、チョンノグ・ヌサンドン
(樓上洞)で下宿をしていたが、彼が散策しながら詩想を練ったと思わ
れ、この一帯にユン・ドンジュ詩人の丘が造成されるようになった。
丘の上には彼の代表作である「序詩」が刻まれた大きな詩碑があり、
近くにはユン・ドンジュ文学館もある。
- チャンイムン(彰義門)
- チャンイムンはイヌァンサン(仁王山)
とペガク(白岳)の交差地点にある門で、四小門の中では唯一、
朝鮮時代の門楼がそのまま保持されている。この門楼は壬辰倭乱
(文禄の役)の時に焼失されたがヨンジョ(英祖)17年(1741)に再建さ
れた。ヨンジョの時に門楼を新たに建てた際、インジョ(仁祖)反正
時に反正の群れがこの門から都城に入ったことを記念するために、
功臣らの名前を刻んだ扁額が掛けられたが、現在も当時のまま残さ
れている。現在はチャハムン(紫霞門)として呼ばれることが多く、
同門付近の景色がケギョン(開京)の景勝地であった チャハドン
(紫霞洞)と類似していることから名づけられた。